倉濱から楠瀬家の馬車に揺られ、西洋風の煉瓦造りの建物が建ち並ぶ山手へ。 窓外の見たことのない景色にシスレーは目を丸くしていた。 太股の上に乗せられた両手は、はしゃいで声をあげてしまいそうになる己を律するためにきつく服を握り締めている。 色とりどりのドレスや着物に身を包み、倉濱では見たことのない美しい毛並をした犬をつれた貴婦人たち。 物売りの男でさえ整った身形で、高級そうな包みの菓子を売り歩いている。 青銅の街灯、ぴかぴかに磨かれたショウウィンドウ、きちんと整列した石畳、花壇の中で雫を乗せて揺れる花々。 シスレーは、馬車を降りてすべてを見て回りたいと思った。 そうして、この輝いた香ばしいような空気を胸いっぱいに吸い込んで、 自分の体の一部にしてしまいたいと願った。 体を小刻みに震わせ、表の様子に釘付けになっているシスレーに、遥は微笑まずにはいられなかった。 自分にとっては当たり前の世界。 それを新鮮と感じ、こんなにも心を突き動かされてくれるとは! 「お嬢様、大丈夫なんですか?こんな乞食みたいなの連れて帰ったりしてー…主様腰抜かしますよ」 「お父様はそんな小さい方ではありませぬ。それに、乞食だなんて、苦しみながらも働いてくれている方たちになんてこと」 そう言った途端俯いてしまった遥に、馬車に同乗していた男の召し使いはひとつ溜息を吐いてから宥めるように言う。 「お嬢様がお心を砕かれたところで、あの者達が楽になるわけじゃありません。自分の人生を一生懸命に生きることがお嬢様に出来る唯一の救済です」 「ですが、端午」 ガタンと大きく馬車が揺れ、止まった。 馬の嘶きが数回響き、外から扉が開けられる。 遥とどこか親しげに話していた召し使いが先に降りると、遥の手をとって至極優しく地面へと下ろした。 次いで降りようとしたシスレーの目の前でバタンと扉が閉まった。 反応が遅れ、高い鼻を思い切りぶつけたシスレーは、涙目になりながら鼻の頭を撫で、窓硝子越しに目の前の召し使いを睨みつけた。 すると、その召し使いの男は、瑞祥人離れした色素の薄い灰色の髪を揺らして振り返り、意地悪く口端を上げて笑った。 長く伸ばした前髪が鋭い目を縁どるように強調してさらに凄みを増している。 倉濱にも警戒すべき人間は何人かいたが、ここまで警戒心を煽るような人物に、シスレーはいまだかつて出会ったことがなかった。 夕陽が沈んだ直後の空、朝露に濡れる菫、話に聞くアメジストという宝石はきっとこういう色をしているのだろう。 でも、とシスレーは顔をしかめた。 その瞳はどこか疎ましそうで、お前など遥の傍にいるべきではないと、そう言われているように感じた。 「端午、シスレーがまだ降りていないではないですか!」 遥から注意を受ければ、端午と呼ばれた召し使いは仕方なさそうに扉を開けた。 ひょいと飛び降りると遥のもとに駆け寄り、振り返って召し使いを睨む。 「おやおや、嫌われちゃったみたいだな」 肩を竦める端午を置いて、遥とシスレーは開かれた門の奥にそびえ建つ屋敷へと足を進めた。 周りの屋敷より幾分か控えめな造りで、落ち着いた色の草花と象牙色の小さな噴水があるだけの質素な庭。 数段の石段をあがると、握り拳ほどの大きさのステンドグラスがはめられた扉がゆっくりと開かれた。 扉の先には、ふくよかな初老の女性が温かな笑みを浮かべて立っていた。 立派な家に加えて女給の出迎え、初めての経験にびくびくしているシスレーを安心させようと、遥が柔らかく微笑みかける。 「わたくしの家で手伝いをしてくれている女給の比佐子さんです。比佐子さん、こちらはシスレー様」 そう紹介されれば比佐子の視線は自然とシスレーへ向く。 じろじろと眺められるのを感じると、なんだか急に後ろめたい気持ちでいっぱいになり身を縮こませる。 「(どうせ僕は乞食に見えるんだ)」 目を眇めてつやつやと光を放つ床を睨みつけるように視線を落とす。 「ふん、まずは風呂ですね、お嬢様」 「えぇ、お風呂ですね」 最悪追い出されるのではないかと身構えていたシスレーの頭に降ってきたのは予想とは違う言葉。 ゆっくりと顔をあげると、着物の裾を口許にあてて笑う遥と、腰に手を当てて苦笑いをする比佐子。 呆けているシスレーの腕をむんずと掴むと、比佐子は勢いよく室内に引きずり込んだ。 警戒心の強さにはなかなかの自信があったシスレーは、自分をいとも簡単に捕らえた比佐子に畏怖の眼差しを向け、 連れて行かれまいと足を突っ張って暴れながら不安そうに振り返り、遠ざかっていく遥に無言で助けを求める。 当の遥はシスレーの心情が理解出来ないのか、首を傾げたまま微笑みひらひらと手を振った。 「まぁ!」 杖の稽古のため着ていた袴から部屋着用の小紋に着替え、居間で紅茶を飲んでいた遥は、 石鹸の匂いをさせながら現れたシスレーの姿に表情を明るくして両手を合わせた。 「よくお似合いですわ!」 「本当に…?」 初めて着物に袖を通した当のシスレーは窮屈そうに身動ぎ、上目遣いで窺うような視線を投げる。 遥はさらに笑みを深めて頷くと、こちらへ、とテーブルを挟んで向かい側の席を勧めた。 「瑞祥の着物は動きづらい」 「確かに着慣れないと苦しいかもしれませぬが、いざという時のために鍛えていると思えば苦ではないはずです」 興奮気味に目を輝かせ拳を掲げる姿は、呆れるのを通り越して微笑ましい気さえしてくる。 シスレーはこの短時間のうちに、絵に描いたような瑞祥乙女に見える遥の感覚が少しずれていることをなんとなく理解してきた。 馬車の中でも、車窓から見える町の一角で起きている喧嘩に対して、 気が篭っていない拳だ、やら、鍛錬が足りぬ、やらと可愛らしい唇から檄が飛ぶことがあった。 「遥は、鍛錬が好きだね…」 「えぇ!とても!」 シスレーと遥が顔を合わせて笑いあった時、玄関から比佐子の声が響いてきた。 どうやらこの家の主が帰ってきたようだ。 席を立とうとする遥の手を、隣にいつの間にか登場していた端午がそっと取るとシスレーを振り返りにんまりを笑む。 「(この男…)」 端整な顔が歪むほど深く眉間に皺を寄せて端午を睨みつつも負けじとついていく。 「比佐子さん、今日こそは麦酒を飲みたいのだが」 「旦那様、それはお嬢様に訊いてくださいませ」 玄関には、比佐子に帽子と外套を渡しながら悪戯をする小さな子供のように笑う中年の男が立っていた。 頼みごとが上手くいかなかったようで気まずそうに頭を掻く姿を見てシスレーは目を見開いた。 ―「俺の可愛い天使ちゃん!」 頭の中を会いたくてたまらない人の笑顔がぐるぐると巡り、咄嗟に口許を両手で覆った。 容姿こそ似ていないものの、持っている雰囲気がよく似ていた。 雰囲気という微妙なものに対して敏感なシスレーだからこそ感じたことなのかもしれないが、本当によく似ていた。 「おかえりなさいませ、お父様」 「お疲れ様です、主様」 「遥、ただいま。それから端午も、お守りご苦労」 「主様、聞いてくださいよ。お嬢様がしょうもない拾い物をしましてね、どうなさいますー?」 反論しようとする遥を手をそっと静めると、家主はシスレーに目を向けた。 遥と同じ鳶色の瞳がシスレーの体をなぞるように見つめる。 橙色の髪を恥じるように握ると、家主からの視線に耐えかねてシスレーは俯いてしまった。 コツコツと革靴が床板を叩く音が近づいてくる。 シスレーはぎゅっと目を閉じた。 「新しい家族を連れて帰ってきたのだね、遥」 優しげな声色に恐る恐る瞼を持ち上げると、目の前には穏やかな笑顔があった。 動揺して視線を彷徨わせた先には、肩を竦めて苦笑する端午と安堵の笑みを浮かべて台所へ向かう比佐子、それから、嬉しそうに頷く遥の姿。 「私は楠瀬啓明だ。君の名は?」 「…シスレー」 「そうか、シスレー、ようこそ我が家へ!」 橙色の髪を、啓明の大きな手が包み込むように撫でた。 檸檬が器の底に横たわり、話に耳を傾けるリフィの顔を見上げている。 「それが、遥さんとの出会い…か」 「遥のこと、誰かから聞いた?」 「うん。お客さんからね、ちょっとだけ」 そう、と苦笑を零すとシスレーは無意味に布巾で作業台を拭き始めた。 「遥だけじゃない、家族との出会いだよ」 しばらく続いた沈黙の後、そう呟くと、声に反応して顔を上げたリフィに微笑みかける。 「素晴らしい人格の父親と少しお節介なおばさん、鼻につく兄貴分と愛しい恋人が僕の家族になった」 リフィは飲み込んでいた言葉を口にすることに決めた。 訊きたいことは、その優しげな思い出の後に起きただろう様々な出来事だ。 「その愛しい遥さんは、今どうしてるの?」 その言葉を聞いてもシスレーは動揺しなかった。 予想の範囲内の質問だったのだろう。 目を細めるとゆっくりと唇を動かす。 「行方不明なんだ、恐らく闘狗戦に関わる何かのせいで」 「え、どうして」 「わからない。でも目撃情報があるんだ。遥は誘拐されたとしか思えない…啓明と同じように」 シスレーの言葉に、リフィの耳はぴくりと震えた。 柔らかい表情を浮かべていた顔は一変して真剣なものになっていた。 「もしかして、遥さんが前回の闘狗戦に参加したのって」 「遥は、啓明の行方がわかるんじゃないかと期待して参加した」 こくりと頷いてリフィの言わんとしたことを肯定したシスレーを見て、なるほど、と顎に手をやる。 「僕がどうしても闘狗戦に参加して勝ち進まなければならないのは、遥の行方を探るためだ」 言われずとも、もう察しがついていた。 やっと種明かしをされた気分になって妙に清々しくなったリフィは、何かを決心したようにすっきりした顔で笑った。 「よし、あたし闘狗戦に参加する!」 昔話を懐かしみながらいつの間にか説得に片足を踏み入れていたことに気づいていたシスレーも、 まさかこんなにあっさりさっぱり口説き落とせると思えなかったためかぽかんとしている。 リフィはカウンターに身を乗り出して鼻息荒く捲くし立てた。 「優勝したら何でも叶うんだよね?」 「う、うん…遥の願いは叶ってないけど」 「じゃあ、奴隷をやめるのは?」 「それは叶うと思う」 「そっか…女を演じなくて済むようになるなら、あたしにも利があるし」 「本当にいいの?」 働く場を提供してくれたこと 命を救ってくれたこと リフィからすれば十分過ぎる恩があった。 天秤はもはや片皿を地面にめり込ませている。 シスレーの両手を掴むと、声高らかにリフィが叫んだ。 「遥さんを見つけて、自由になって、あたしは女を捨てて好きな歌を好きな時に歌う!」 「表は楽しそうだなァ、そうだろうがクソ神主」 薄暗い社の奥、榊に四隅を囲まれた空間の真ん中に横たわる白い巨体。 札が貼り付けられている太い杭が体を貫いており、身動きがとれずにいるようだ。 畳の上には目が覚めるほど鮮明な黄色の花弁が無数に落ちている。 空色の瞳は狡猾そうに歪み、忙しなく辺りを見回す。 「絶対に辿りつけない世界のことは、人間でも化け物でも変わらずに楽園だと思えるんだね。勉強になったよ」 社の戸の外では狩衣を身に着けた靖晴が薄く微笑んでいた。 その両脇には、犬の頭のような兜を目深に被った四足の若者が2人、いや、2頭立っている。 「狛王丸、獅子王丸、よーく見張っておいておくれよ。何をやらかすかわからないからね」 「承知」 靖晴は社に背を向け離れながら嘲笑を含んだ声色で呟いた。 「絶対に逃げられないよ、金花殿」 開かれた門 ☜ ◊ |