―「お前は俺の子だ、奴隷だからと心まで貶めるな、胸を張れ!」



太陽の光に溶けそうな金色の髪が、眩しい人だった。

















最後の客が帰り、もう来客はないだろうと早めに閉めようとしていた時、その客はやってきた。

質のいい生地で仕立てた外套と背広は、それだけでその人物が高い身分であることを示していた。

普段喫茶loinを訪れる本土の客とは違う雰囲気だ。

この厭味ったらしい雰囲気を、シスレーは知っていた。

少年期に染みついた嫌な固定概念は、青年期になったシスレーをいまだに支配している。



「(この男、軍警官か)」



品定めする悪い癖を極力抑えて男を見る。

やっと休めると思っていた中の来客に、リフィは目に見えてがっかりした様子で客を席に案内している。



「カウンター席がいいのだが」

「あ、それでしたらこちらにどうぞ」



脱いだ外套をリフィに渡し、カウンターの椅子に腰をかけると帽子をテーブルに置いた。

手元の品書きを一瞥して珈琲を注文すると、おもむろに手帳を出す。

気にしないように珈琲を淹れ始めると、男はシスレーに声をかけた。



「手は動かしたままでいいから俺の質問に答えてくれ、貴様は奴隷身分から除籍された男か?」



湯を注ぐ手が一瞬震えてしまった。

シスレーは聞かれた内容よりも、男の口調に体を震わせた。



「お答えする義務はございません」



目を合わせずに淡々と答えるシスレーに、様子がおかしいことに気づいたリフィは注視する。



「では、こちらから言わせてもらおう。その首のケロイドはなんだ?」



ゆっくりと男に顔を向けたシスレーは、動揺と怒りの混ざった表情をたたえていた。

男は自分の首筋を指でトントンと叩いて目を細めた。



「そのケロイドはなんだ、と聞いている」

「お答えする…義務は」

「瑞祥憲法34条、奴隷印の隠蔽は禁固」

「なんなんですか、あなた」



挑発されながらも律儀に淹れた珈琲を男の前に置くと、睨みそうになるのを耐えながら相手を見る。



「俺は日高紳一という者だ、仕事はわけあって言えぬ」



顔色も変えず珈琲を飲む男に、どうせ軍警官だろうと、シスレーは心の中で悪態を吐いた。



「さて、先程の動揺から考えるに、貴様のその首のケロイドは奴隷印を焼き消した痕と見える、違うか?」

「これは正式な手順で焼き消すことを許可されたものです。問題はないはずです」

「それでは、奴隷身分から除籍をされたことを認めるのだな?」



心穏やかではいられないやりとりに、傍で聞いていたリフィは気が気でなかった。

客商売をしてきて本土の人間と接する機会が増えたとはいえ、

本土の人間に対する恐怖は、微々たるものではあるが、存在している。

もしこの人物が、浮世島を敵視するような人であれば、何か悪さをされるかもしれないとさえ思った。

浮世島に批判的な人は、本土では少なくないと聞いたことがあったからだ。

黙り込むシスレーに、日高は眼鏡の奥の瞳を細め、溜息を吐くように言う。



「沈黙は肯定と取ろう。噂は確認済みだ、シスレー、貴様は闘狗戦の優勝者だな」



闘狗戦という言葉を耳にした途端、リフィの体は不自由なほどに固くなった。

なんともいえない恐ろしさが体中を駆け巡り、シスレーの反応と相まって不安な気持ちでいっぱいになる。



「勝ち残ればどんな願いでも叶えてもらえる、命を懸けた賭け事…闘狗戦について教えてもらいたいんだが」

「ここは浮世島、あなたたち軍警官の力は行使できないはずです」



次は日高が顔をしかめる番だった。

はっきりと身分を当て、しかも最初から気づいていた様子のシスレーに少しばかりの動揺は仕方ない。

相手の警戒を解くことが早急に求められると感じ、肩を竦めて笑い混じりでおどけてみせる。



「だからこそ伏せて動いているのだ、故に軍警官としての権力は行使していないつもりだが?」

「なら、その軍警官特有の偉そうな口の利き方を改めていただきたいものですね」



日高の配慮を切り捨てるようにシスレーが遠慮なく返答する。



「ご指摘傷み入る、しかしこの口調は決して軍警官だからというわけではないぞ」

「その軍警官は偉いのだと言わんばかりの上から目線が気に食わないと申し上げているのです」



冷めていく珈琲を挟み言い合う2人の男に、恐る恐る様子を眺めていたリフィは、口許に笑みを浮かべていた。

まるで小さな子供が言い争いをしているのと相違ないと思ってしまったからだ。

リフィがやっと和み始めたのも束の間、今まで向き合い強い視線で日高を見ていたシスレーは食器を洗い始めた。



「僕は軍警官に加担するようなことは、正義であってもいたしません。お引取りください」



その言葉は冷淡さと失望を孕み、渋々といった感じの日高を店から追い出した。

半分ほど残った珈琲を流しに下げ、黙々と洗うシスレーを横目に硝子戸の鍵を閉める。

顔を上げようともしない様子に、リフィは堪らずカウンターに近づき、控えめに声をかけた。



「シスレー、闘狗戦のことバレたらまずいのはわかるけど、どうしてあんな頑なに」



リフィの言葉は、首をもたげたシスレーの目を見ると途切れてしまった。

声も出ないほど恐ろしい目をしていたわけではない。

涙で濁った寂しい色の瞳、布巾を握り締める手は震えていた。

カウンター越しに向かい合い、手を伸ばして震える肩に手を添えるも、何を言っていいのかわからず口篭る。

しばらく続いた沈黙は、シスレーの静かな深呼吸によって終わり、

ありがとう、という意味でリフィの手を握って下ろすと、湯を沸かして紅茶を淹れ始めた。

2人分のカップを用意しているのを見て黙っているリフィをカウンターの席に座るよう促す。

席に着いたリフィの前に紅茶の入ったカップを置く。



「僕の父親は軍警官に殺された」



母親は病気で亡くなったらしいんだけどよく知らない、と付け加え、寂しげに床に視線を落とした。

突然の告白に気遣うような目で見つめてくるリフィに苦笑を浮かべ、首を傾ける。



「そういえば、リフィのご両親は?」

「小さい頃、店にあたしを捨ててどこか行っちゃったみたい。

父親のことはまったくわからないや。店の女将さんがお母さんだと思ってるよ」



強がっているわけではなく、リフィにとって親は店の女将でしかない。

歯を見せて笑うと、心配そうにしていたシスレーの顔から不安が消えた。

よく砥いだ包丁が檸檬を薄く切る音と、刃がまな板に当たる音が店内に響く。



「少し、昔話をしてもいいかい?闘狗戦に参加するにあたって、リフィに知ってもらいたいことがある」



琥珀色の紅茶の上を、檸檬が滑るように揺らいだ。

































瑞祥帝国 本土・倉濱

倉庫が建ち並び、咽返るような潮風が吹き上げる港町の一角は、港周辺で働く奴隷たちの住処になっていた。

様々な国から連れてこられた奴隷たちは、最初こそ言葉が通じず交わることがなかったが、

皮肉にも、覚えたての瑞祥語で仲良くなり始めていた。

人が群れれば、リーダーが必要になる。

そんな自然な流れで、ニコラ・シスレーは倉濱で働く外国人奴隷の長になった。

幼少の頃に瑞祥に連れてこられたのだが、貴族であった彼の家は、優秀な学者や医者を何人も輩出する名家だった。

その誇りと知性ある血は彼の中にも流れていたため、ニコラには賢さと気品があった。

だからといって威張り散らすこともなく、誰にでも平等に接し、

自分が辛くとも弱者に手を差し伸べる姿は老若男女問わず人気がある。

ニコラを見かけると、奴隷たちは皆、敬意と親しみを込めて声をかけた。

シスレー、と。



「ただいま、俺の可愛い天使ちゃん!」

「父さん、僕もう11歳だよ。その呼び方やめて」



仕事が終わり、家に辿りつくころには疲れきっているはずなのに、ニコラはいつも笑顔だった。

可愛い息子が家で待っていたからだ。

すっかり日が落ちて辺りが闇に包まれる中、息子はわずかな薪を燃やし、干した肉を火で温めていた。

短くなった蝋燭の火が、頼りなげに揺れている。



「勉強は捗ったか?」



蝋燭の明かりをテーブルの上にかざすと、そこには古い本とレピーユ語の拙い字が並ぶ紙片があった。

ニコラの問いに、息子は恥ずかしそうに鼻先を掻きながら紙片を手にとる。



「読むのは得意だよ、書くのはちょっと難しいけど」

「そうか。身は瑞祥にあろうとも、心はいつまでもレピーユにあれ。

俺たちはレピーユ人だからな、読み書きくらいはできないといけない」



幸い、瑞祥政府は祖国の言語の勉強を禁止していない。

ニコラは瑞祥語の勉強と共に、祖国であるレピーユの言葉も学ばせていた。

もう2度と帰ることができない祖国だとしても、誇りだけは失いたくなかったのだ。

勉強道具を棚にしまい、質素な食事をテーブルに置き、親子は席に着く。



「食べて少し眠ったら、銭湯で残り湯を浴びに行こうな」



息子は湯に身を浸すことを思い、ニコラの温かな掌に目を細めて笑った。







その頃、倉濱の倉庫街では不穏な噂が飛び交っていた。

近々、外国人奴隷の反乱が起きるというのだ。

今まで外国人奴隷による反乱はたびたびあった。

その度に軍警院が鎮圧し、大事件に発展することはなかった。

しかし、今回の反乱はそう簡単に鎮圧できるものではないだろうと言われていた。

奴隷の中で最も力を持つ、ニコラ・シスレーが率いるというのだ。







「鯨さんアターック!」

「父さんやめて!わけわかんない!」

「やだもう俺の天使ちゃん可愛い!」

「こら、あんたたち!湯がこぼれてもったいないでしょ!」



瑞祥国内で反乱を起こしたところで、奴隷が解放されるわけもないことを知っている知識人のニコラが、反乱など起こそうわけもない。

真夜中の銭湯で無邪気に息子と戯れ、銭湯の女将に年甲斐もなく叱られるこの男が、武力で現状を打破しようなどと考えるわけもない。





しかし、その時はやってくる。







「ニコラ・シスレー、瑞祥帝国に対する反逆罪で貴様を逮捕する」



うろたえる女たち、ニコラを守ろうとする男たち、

それらを掻き分けてやってきた警官たちに、ニコラはあっという間に囲まれてしまった。



「俺が何をしたって言うんですか」

「反乱を企てた疑いがある、院まで同行願う」

「そんな!俺は一生懸命瑞祥のために働いてきました!今更反乱なんて…!」



身を捩り抗議するも、縄をかけられ無理矢理連れ出される。

このまま軍警院に連れて行かれたら、いつ帰って来られるかわからない。

ニコラの頭は愛する息子でいっぱいになった。

ひとりぼっちにしてしまう息子に、たった一言、ちゃんと帰ってくると言いたい。

工場長と警官が話している隙をついて、裸足であることも厭わず走り出した。

工場から奴隷の住む一角の地形は、警官よりも詳しい自信がある。

ニコラは縄に両腕の自由を奪われたまま、荒れた石畳の道を一心不乱に駆け抜けた。



「天使ちゃん…!」



昼間に聞こえるはずのない父親の声に、息子は慌てて外に出た。



「父さん!」



縄をかけられ、足の裏から血を流すニコラの姿に、息子は酷く動揺して目を見開く。



「ごめんな、天使ちゃん。しばらく帰ってこられない。でも」



遠くから警官たちが走ってくるのを視界の端に、ニコラは体を屈めて息子の目を覗き込んだ。

自分の頬を息子の頬に寄せると軽く触れる。



「お前は俺の子だ、奴隷だからと心まで貶めるな、胸を張れ!」



警官による威嚇射撃がニコラの足元の石を穿った。

時間がないと悟ったニコラは、息子の肩を頭で強く押した。

その衝撃に耐えられず後ろに転げて尻餅をつく息子に、顎で路地を指し示す。



「他の家で匿ってもらいなさい、ほら、さぁ行って!」



銃弾と警官の怒号、息子は一瞬にして理解し、涙を飲んで立ち上がった。

少し遠ざかったところで堪らず振り返る。



「行け、俺の可愛い天使!」



その時、銃弾がニコラの体を貫き、太陽のような笑顔をそのままに床に倒した。

あまりの衝撃に動けなくなった息子を、近くにいた奴隷たちが手を引いて逃げる。

背後で聞こえる警官たちの声が、息子の耳から離れなかった。







翌日の新聞には、凶悪な反乱首謀者を処刑した、という見出しが躍っていた。







シスレーという呼び名は、息子に受け継がれた。

天使ちゃんと呼ばれていたその息子の本当の名前は、ニコラ以外誰も知らなかったため、シスレーと呼ばれることになった。

ニコラ譲りの賢さを伴った整った顔立ちに、同年代の奴隷の少女たちは心躍らせていた。

しかし、目の前で父親を奪われた少年の心には深い傷が残り、それは周りの人間との間に分厚い壁を作り出していた。

父親のニコラのような愛想や優しさはなく、最初はニコラの息子として扱っていた奴隷たちも、

シスレーの、無愛想でニコラと似ても似つかない態度に、次第に距離を置くようになった。

匿ってくれていた奴隷のもとを離れ、寝床を貸してくれる場所に身を寄せ、船底を磨く仕事をしながら必死に生きていた。

しかし、もう限界だった。



「父さんのところに行きたい」



何をしていても頭を過ぎるのは、温かな掌と太陽のような笑顔、そして銃声と倒れていく父親の姿。



「どうして迎えに来てくれないの、父さん」



夕陽が小波を輝かせる中、岩場に立ち海を見つめる。

父親と離れて暮らしてから、仕事の後にここで思いを馳せるのが習慣になった。

この場所がなかなか人目につきにくいことを知ったシスレーは、その日、手にナイフを携えていた。



「もう、生きていたくない」



海風に水分を浚われ、乾いた唇からか細い声がそう紡ぐ。

目を閉じ、潮騒が頭蓋に反響する中で、奴隷印が刻まれた首筋に刃先を当てる。



「(もうすぐ会えるよ、父さん…!)」



1度首から離して突き刺そうとしたナイフは、何かに弾かれ、一瞬にして手から離れて海の底に消えていった。

何が起こったのかわからず、ナイフを握っていたはずの両手をじっと見つめた。



「おやめくださいませ!命を粗末にしてはなりませぬ!」



誰もいないと思っていた中に響いた他人の声に、シスレーは恐る恐る振り向いた。

そこには、袴姿に長いジョウを構えた幼い少女が立っていた。

黒髪を日本髪に結い、顔立ちからもすぐに瑞祥人だとわかる。

どうやらシスレーが手にしていたナイフは、少女の持っていた杖で飛ばされたようだ。



「(気配すらわからなかった…)」



警戒心の強さに自信があったシスレーにとって、気づかないうちに間合を詰められていた事実は驚くべきものだった。

何も言わずに少女を見ていると、その少女は杖を投げ捨ててシスレーの傍までやってきた。

呆然として身動きがとれないシスレーの両手を握ると、鳶色の瞳が真っ直ぐにシスレーを捉える。



「死んでしまっては、すべて終わりでございます。本当に終わってもよろしゅうございますか?」



刺すようだった西日が、この少女といるとなんと暖かいものになるのだろうか。

くしゃりと顔をしかめると、シスレーの目から涙が止め処なく溢れた。

心を閉ざし、笑みを浮かべることを忘れた感情は、泣くことすら忘れていたのだ。



「終わり…たくない…っ」



途切れ途切れの言葉に、少女はこくりと頷いた。

まるで聞いているよ、と言うかのように繋いだ手を固く握る。



「まだ、父さんに言われたこと…守ってない」

「ならば、まだ生きなければなりませぬ」



鼻水をすすり、情けないほど涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げると、少女が柔らかく微笑んだ。



「わたくしは、楠瀬遥と申します。貴方様のお名前をお教えいただけませぬでしょうか?」

「僕は、シスレー」

「シスレー…お名前は、お教えくださらないのですか?」

「僕の名前は、父さんだけのものだから」



そう言うと遥は、わかりました、と笑ってそれ以上追究しなかった。

だんだんと暗くなっていく空を見上げながら、2人は岩場に座った。

ぽつりぽつりと話をしているうちに、シスレーは父親のことや

今まで誰にも話せなかった胸の内を包み隠さず遥に話していた。

ただ頷いて聞いているだけなのだが、遥には人の心をほぐす不思議な力があるようだった。

広い海原に向かって声を上げて泣いた時に、声が波間へ吸い込まれていくように、

シスレーの慟哭は遥が受け止めてくれた。

いつの間にか心が凪いでいることに気づき、シスレーは不思議そうに自分の胸に手を当てる。



「さて、そろそろ帰らなくては」



闇が迫り、肌寒さを感じた遥は腕を擦りながら立ち上がった。

少しの間話していただけなのに、シスレーは寂しさを感じ、思わず遥の袖を握り締めていた。



「あ…ご、ごめん」



慌てて手を離し、気まずそうにズボンの生地を掴むシスレーの姿をじっと見つめた後、遥はにっこりと笑って言った。



「さぁ、一緒に帰りましょう!」

「一緒にって」

「お父様が、遥は良い子だからたまには我侭を言ってもよろしいと、この間おっしゃっていました」



話の流れについていけず、沈んでいった夕陽と同じくらい目を丸くしたシスレーの手を掴むと、遥は握り拳を作ってみせる。



「今こそ実行の時!わたくしは我侭で、シスレーを持って帰ります!」



シスレーの返事を待つように首を傾げたまま見つめてくる鳶色の瞳に、シスレーは大きく頷いた。

遥は自分自身の我侭だと言っているが、シスレーからすれば自分の我侭に相違なかった。

もっと一緒にいたいという思いを、遥が汲み取ってくれたのだと、また涙が溢れた。



「連れて行って、僕を、一緒に」



その言葉に、遥は花のように笑った。







潮騒は聴いていた