「日高!組み手をしよう!」

「え…さっき剣道の稽古終えたばかりじゃないですか…」

「問答無用!さっさと胴着に着替えんか!」



上田儀兵衛ウエダギヘエは、加減をするという思考を母親の胎内に置いてきてしまったのではないか、と言われるような男だった。

中肉中背と、恵まれた肉体ではないものの、精神力は歴代の軍警官の中でも抜きん出ていた。

稽古や学業に真面目に取り組む姿勢、加減ができないとはいえ、後輩への優しさもあり、憧れない者はいない。

それに比べて自分は、と日高は垂れる汗を拭いながら、さんさんと輝く太陽を拝むように上田を見ていた目を細めた。

主席で軍警学校に入学したのはいいが、日を増すごとに何事にも真面目に取り組めなくなっていた。





5年間で瑞祥を守る軍官や警官になることを目指すのが、この軍警学校だ。

法律に関する学びはもちろんのこと、様々な武道や精神鍛錬も行われる。

中等学校を卒業すると同時に入学することになっているのだが、瑞祥一難しい入学試験を通らなければこの学校の門はくぐれない。

この学校に在籍する者たちは、いわば選び抜かれたエリートたちなのだ。

もちろん、その難題ぞろいの試験を満点で合格した日高はエリート中のエリートだった。

戦時中に名を轟かせた雷神・日高祥次郎中将の孫として中等学校時代から特別視されていた。

ただ、雷神の功名と日高はあまりにもかけ離れていた。

偉大な祖先の存在は、日高の中に劣等感を生み出していたのだ。







―「日高?あいつなんか頭良いだけだろ?」

―「雷神中将みたいな勇気なんかねぇよ」







頭でっかちの口先男。

現に軍警学校でも、勉学の成績は良くても武道の成績が芳しくない。

陰口を叩かれるのは軍警学校に来ても変わらなかった。



「貴様は体術より狙撃のほうが向いてるんじゃないか?」



そう言ってきたのは、まったく初対面だった上田だった。

3年の上田儀兵衛は、人好きのする笑顔で流れる汗を拭きながら声をかけてきた。

毎日放課後の練習に誘ってくる上田を最初は毛嫌いしていた日高だったが、あまりのしつこさに折れて一緒に練習をするようになった。

すっかりなくなってしまったと思っていたやる気は、上田のしつこさによって蘇ったようだ。

褒められた狙撃の腕がますます磨かれたのが証拠である。

西日の差す道場で、畳の目を足の裏で擦りながら形の練習をする上田を、正座をして見つめる。

こう言うと怒られてしまうのだろうが、と日高は心の中で小さく笑った。

上田の、年齢のわりに幼さの残る顔立ちには黒縁の眼鏡は不釣合いで、まるで眼鏡にかけられているようだった。



「何か失礼なことを考えておるな、日高…」

「え、考えてませんよ」

「いいや、俺にはわかる!眼鏡か!眼鏡なのか!」

「…ぶふっ」

「貴様!笑うなんてけしからん!」



自分の眼鏡を外すと、こうしてやる!と言いながら日高に無理矢理かけさせた。

すると、かけさせた当の本人が目を丸くして日高の顔をまじまじと見つめている。



「なんですか…?」

「うむ、貴様のほうが似合うな。俺が死んだら形見に眼鏡をくれてやる」

「やめてくださいよ、縁起でもない」



上田との時間が、日高にとって最上のものだったことは間違いない。

立派な軍官になっても、ずっと共に戦い笑いあっていけるのだと、そう信じていた。







あの日までは。



















霙雪が視界を奪う中、舗道の敷石の隙間に染み込でいく鮮血が、今も頭から離れない。

止まることなく溢れる血液に、どうすることもできなかった。



「ひ、だか…か」

「上田…さん」



広がる血の海の中に膝をつき、か細く白い息を吐く上田の体を抱きかかえた。

最期の言葉を聞きとろうと、上田の口元に耳を寄せる。

上田は震える手で懐から手帳を取り出すと、瀕死の状態とは思えない力で日高の袖に縋りついた。

驚いた日高が顔を離すと、両腕を痛いほどに掴み、血に濡れた唇で必死に何かを訴えようとしている姿が目に入った。

唇を動かすごとに口端から血を零し、見ていられないほどの状態。

手帳を日高の腹に押しつけ、目を見開き涙を流している。



「この、くには…けがされ、る」

「上田さん…?」

「こ、れ…を…」

「す、すぐに衛生官を呼びますから、待っててください…!」



その場を離れようとする日高の腕を掴み、慌てた様子で手帳の表紙を開く。

何か伝えたいのだろうかと、手帳を自分のほうに向けて目を走らせる。

そこに見えたのは家族写真と、表紙の裏に縫い付けられた朱色の守り袋だった。

荒げていた上田の息は死を目の前にだんだんと弱いものになっていた。

戸惑う日高の視線に、上田は宙を見つめたまま小さく頷く。

糸を噛み千切り、守り袋の中を覗くとそこには小さな紙切れが入っていた。





―親愛なる日高へ、正義を譲り渡したく候―





「正義」



軍官たちのものだろうか、遠くから足音が近づいてくるのがわかると、

上田は自分の懐と日高の懐を指差し、手帳を見つめた。



「しまえ、と…?」

「だれに…も、みつからない、よう、に」



コートの内ポケットに手帳をしまうのと、軍官たちが駆けつけたのはほぼ同時だった。

胸の上で人差し指だけ伸ばしていた手が微かに位置をずらし、上田が事切れたことを示した。







形見には眼鏡をもらった。



















思案堂の看板がかかげられた下、硝子の扉を開けると珈琲の香りと甘ったるい菓子の匂いが鼻腔いっぱいに広がった。

入り口近くの本棚から洋書を手にとると、日高は顔をしかめる。

先程の心地いいものとは違う鼻につく臭い。



「黴臭いな、きちんと干してるのか?」

「これでも書物に対しての愛情はあるからね、日替わりで天日干ししているさ」



洋書を戻すと、帽子と外套を脱いで外套掛けにひっかけてカウンターの席に座る。



「上田様はこんなに口うるさくなかったのになぁ」



茶化すように片眼鏡越しに笑う男に、日高は睨みをきかせた。

静かに溜息を吐いては目一杯の悪態を吐いてみせる。



「貴様が上田さんの知り合いでなければこんな店絶対に来ないわ」

「はいはい」



日高の言葉を軽く流しながら珈琲をカップに注ぐと、日高の前にそっと置いた。

薄雲のような湯気をたてるそれに口をつけると同時に、鈴の音のようなか細い声が聞こえてきた。



「靖晴、お茶請けはどれにするの」



覇気のないその声の持ち主は、その声同様に覇気のない表情を、日高と話していた思案堂のマスター・靖晴に向けている。

まだ幼い少年だ。

歳は10に満たないだろう。



「鈴は気の利く子だねぇ、じゃあシュークリームをとってくれるかい?」



靖晴に言われると、氷の詰まった箱からシュークリームをとり出し、皿に乗せてよたよたと歩いてきた。

袖の長いカーディガンを腕まくりし、下駄を突っかけている姿は些か不恰好ではあるが、 この店に通っている日高からすれば日常の風景だ。

カウンターに置くと、鈴と呼ばれた少年は浅く礼をして定位置である少し高めの司書席に戻っていった。

その姿を眺めて、日高はゆっくりと靖晴のほうに顔を向け、しばしの沈黙の後、不愉快そうな顔で口を開く。



「瑞祥憲法78条、幼児を扱う稚児商売は」

「あの子は稚児じゃないから!まったく、そんなこと言いにきたわけじゃないでしょう?」



ずれた片眼鏡を元の位置に戻すと、改まった様子で日高を見つめる。

核心に触れる前に、と珈琲を喉の奥に流し込むと、懐から皮の手帳をとり出した。

表紙を開き、紙が波を打つほどに書き込まれた頁をしばらくめくり続け、

ある文字が書かれている頁で日高の手が止まった。





闘狗戦





万年筆の青いインクで走り書きをされたその単語は、強調されるように赤い鉛筆で丸く囲われていた。

とんとんと指先でその文字を指し示すと、日高は考えながら言葉を紡ぎだした。



「文字通りに読み解けば闘犬のことなのでは、と思ったんだが、こんなに強調されるとどうにも引っかかる」

「この言葉について何か知らないか、ってことかい?」



いつの間にか淹れていた自分のぶんの珈琲を手に、靖晴は目を細めた。

目の前の日高紳一という男は、4年前まで足繁く通ってきていた上田儀兵衛の後輩らしい。

最後まで何の仕事をしているのかは明かさなかった上田だったが、靖晴はなんとなくわかっていた。

毎日なんとなく過ぎていく日々の中で、上田の存在も、日高の存在も、靖晴にとっては最高の暇潰し。

できるだけ協力しようと思っている。



「この島の人間はほとんどが知ってる言葉だね、そして畏怖し恐怖している」

「怖がっている…?」

「元は、この島に古くから伝わる儀式なんだよ。五枷之狗の伝説は知っているね?」

「御伽噺が関係しているのか」



途端に目に見えて興味なさそうに肩の力を抜く日高に、靖晴はぐっと顔を近づけた。



「御伽噺ではなかったとしたら?」

「何を血迷いごとを」

「まぁ今はいいとして、五枷之狗に感謝する祀りでね。伝説に見立てて、

女神様役の娘と五枷之狗役の男を何組か集めて火水神社の前で戦わせるんだ」

「戦いを捧げることが目的なのか?」

「それもそうだけど、神社で1年間奉公する巫女を決める目的もあったとされる」

「あった…?」



日高のカップに珈琲を注ぐともったいぶったように天井を仰いだ。



「その儀式は戦前にはすでに途絶えている、しかも名称は謝狗祭であって闘狗戦ではない」

「じゃあ、この闘狗戦はなんなんだ…」

「今は違う目的で行われているとされてる、日高くん」



カウンターに乗り出し日高を手招くと、その耳元で極力小さな声で囁く。



「勝ち残ればどんな願いでも叶えてもらえる、命を懸けた賭け事、それが闘狗戦だ」



慌てて靖晴に顔を向け、いったいどういうことなのだという顔をしてみせる日高。

素早く両掌の日高に向けて降参のポーズをとると、首を横に振る。



「おっと、私は実際に参加したわけじゃないから詳細までは知らない。ただ…」



ふとケーキの入った箱を見下ろすと、顎に手をやり、ふんと息を吐く。



「仲見世通りの入り口に、レピーユ人奴隷が商う喫茶loinという店がある」

「え、奴隷が店をやっているのか?」

「あぁ、今は奴隷ではないね、その闘狗戦で奴隷身分から除籍されたんだ」

「奴隷身分からの除籍…」

「思い当たることがあるのかな?」















「行方不明者の捜索願の届け先は、こちらでよろしいのでしょうか?」

「え、あぁ、ここは軍部の受付だから隣の警部の受付に行ってもらえるかな?」



ありがとうございます、と丁寧に頭を下げると最近では珍しい日本髪の少女は隣の受付へ向かっていった。

日高は手にしていたファイルの数字を再び見つめた。

昨年度の数字を完全に記憶している日高には、どうしても納得できない数字がそこに書かれていたからだ。

奴隷の登録件数が1人減っている。

もしかしたら自分の勘違いかもしれない、しかし、と思いを巡らせていると、隣の受付から先程の少女の声が聞こえてきた。



「名前は楠瀬遥、と申します。住まいは浮世島の喫茶loinという喫茶店でございます」















「喫茶loin!」



微かに残っていた記憶に一致する名称を見つければ、思わず声をあげた。

店内の客が何事かと訝しげな表情で日高を見つめる。

大きな洋書を抱えて読んでいた鈴も不思議そうに視線を投げてくる。



「あ、あぁ、そうだよ。喫茶loinに」

「あのとき、確か何かに違和感を覚えて…」



靖晴の言葉を遮るように呟くと、口許に手をやり顔を歪めた。

一生懸命当時の状況を思い出そうと目を固く閉じるも、靄のかかった記憶では役に立たない。



「とりあえず、喫茶loinに行ってみるといい」



眉間に皺を寄せたままの日高の肩を叩くと、柔らかな笑みを浮かべる。









「(まぁ、あのシスレーが真実を話すとも思えないけれどね)」



立ち上がって店を後にする日高の背中を見つめながら楽しそうに笑う靖晴を見上げ、鈴は呆れたように瞼を半分落とした。

靖晴が、日高が残したシュークリームを咥えながらカウンターの中で仕事を再開しているにも関わらず

しばらくの間鈴は扉の前を離れられなかった。







女神様役の娘と五枷之狗役の男

命を懸けた賭け







「(まさか、あの儀式が)」

「鈴、私に何か隠し事をしているんじゃないかな?たとえば…記憶が戻っているとか」



頭の中でぐるぐると考えていたことが、靖晴の言葉で消え飛んでしまった。

驚いて振り向くと、片腕で頭を抱き締められる。

優しい香水の香りと甘ったるい菓子の匂いが鼻腔を支配する。



「なんでも、ない」



ぐっと目を閉じて頭を振った。







遺品と記憶語り