「(だ、誰か助けてくれー)」



盆を胸に抱き、リフィは声にならない声で心の底から叫んでいた。

原因は目の前で腕を組んでいる少女。

なんとも威圧的な態度で店内のソファーに腰掛けている。

大人の社交場ともいえる純喫茶に子供が来るというのはなかなか珍しい。

リフィにとって初めての接客相手だった。

とはいえ、今はまだ開店前なのだ。

15分程前にさかのぼる。









店の前で鼻歌混じりに硝子を拭いていたところ、可愛らしい声で話しかけられた。



「ねぇ、このお店のお姉ちゃん?」

「へ?あ、うん」



顔だけ声のするほうに向けると、そこには襟元に黒いレースが施された赤いワンピースドレスを着た少女が立っていた。

歳は10くらいだろうか、肩まで伸びた綺麗な黒髪を二房高い位置で結っている。

紛れもない美少女にリフィは表情を緩めた。

何事かと聞こうと少女と向き合うやいなや、死角にいた浅黒い肌の男が見え、リフィは息を飲んだ。

鼻の頭まですっぽり顔を覆うくらいに伸ばした前髪で表情は窺えず、身の丈は180を優に超える。



「ここで働いてるの?」

「そうだけど…この店に何かご用なの?」



ちらりと男を見てから少女に言葉をかけると、リフィの視線に気づいた少女が片手をあげた。

すると男は肩を跳ねさせ、少しうろたえてからすごすごと後ろにさがった。

隣の店の壁に寄りかかり心配そうにこちらを窺ってくる。



「店長さんにご用があるの、お話させていただけるかしら?」

「シスレーに?」

「えぇ」



リフィは薄暗い店内に目をやった。

シスレーはまだ2階で準備をしていて、下りてくるまでだいぶ時間がある。

参ったな、と首の後ろを掻いてから苦笑いを浮かべた。



「開店時間にもう1度来てもらってもいいかな、まだお店やってないんだ」



ごめんね、と頭を撫でようとしたリフィの手を、少女はすごい力で叩き落とした。

一瞬何が起きたのかわからずぽかんとしているリフィを、下から見上げているにも関わらず見下したように見つめる。



「大人しくしてたら好い気になりやがって、誰に口きいてると思ってんのよ」

「へ?」



先程の愛らしい態度から一変、少女は両腕を組んで仁王立ちをしている。



「私の名前は伊手更紗、泣く子も黙る伊手屋の若女将よ」



リフィが動揺している間に更紗と名乗った少女はずかずかと店に入り、遠慮のない態度を見せ、ここで冒頭へと戻る。

何も出さないでいるにはあまりにも恐ろしく、リフィはコップ一杯の水を更紗の前に置いた。

もちろんシスレーに声をかけに行った。

恐ろしい来客のこともきちんと告げた。

しかしシスレーから返ってきたのは、呆れたような笑いと、いつもと同じ時間でなければ店には下りないという冷たい言葉だった。

涙を飲み、時間が速く進むことを願いつつ、ちらりと更紗を見る。

出された水を煽るように飲み干し、コップをテーブルに叩きつけてから低い溜息を吐いた。

まるで酔っ払った中年オヤジのようだ。



「名前は?」

「は、はい!あたしの名前ですか?」



突然話しかけられたことで声が裏返る。

直立不動とはまさにこのことだ。

幼い少女だというのに、醸し出す雰囲気はさながら仁王像のような気迫を感じさせる。

盆を握る手に力が入ってしまうのは仕方のないことだった。



「あんた以外に誰がいんのよ」

「ですよね!あたしはリフィと言います!」

「ふうん、変な名前」

「ですよねー」



落ち込みながら相槌を打っていると、店の裏のドアが開いてシスレーが入ってきた。

割烹着を身につけ、すっかりloinの店長になっている。

更紗を見とめると緩やかに片手を上げて微笑む。



「やぁ、更紗。元気そうだね」



その言葉に、更紗がむくりと席を立ちあがる。

更紗がどんな行動に出るかわからず、怯えたリフィは盆を盾のように構えた。



「ばかばか!更紗の狗になるって言ったじゃない!」



盆を構えたままリフィは唖然とした。

さっきまであんなに禍々しい雰囲気だった更紗が、子猫のようにシスレーに擦り寄っているからだ。

腕にしっかりと絡みつき、可愛らしくシスレーを見上げている。



「更紗の狗になるなんて言ってないでしょ」

「だって遥がいないんじゃ次の闘狗戦に出れないじゃない、だったら次は私が」

「遥の代わりはどこにもいない」



穏やかな笑みを浮かべていたシスレーだったが、更紗の言葉に顔色を変えた。

その表情に、しまったと閉口する更紗。

射抜くような目に気まずくなったのか視線を落とした。



「それに、僕は一緒に出たい人を見つけたから」



シスレーはゆっくりと視線をリフィに向ける。

あまりにもまっすぐな言葉と目に、リフィはどこか気恥ずかしくなり、頭を掻いて目を逸らす。

すると、今まで絡みついていた腕を解いた更紗がリフィの前まで大股で歩いてきた。

不機嫌そうに顔をしかめているも、どこか諦めねばと思っているようだ。

その様子がなんだか可愛らしく思え、それに加えて見目麗しい容姿にリフィが眉を下げて情けなく笑むと、

次の瞬間強烈な一打がリフィの腹部に食らわされた。



「好い気になるんじゃねぇよ、くたばれこの泥棒猫が」



あまりの痛みにもはや言葉にならなかった。

負傷したばかりの背中にまで痛みが生じ、苦しげにむせながら床に膝をつくリフィを尻目に、再びソファーに腰かけた。

女は怖いな、とシスレーが心の中でそっと呟いていたとき、開店前のドアが開いた。

機敏な下駄の音が店内に響く。

どこか強気で気品のある歩き方が音からわかる。

その音にシスレーは聞き覚えがあった。

今日は招かざる客の多い日なのだと理解し、臨時休業にするより他ないと心の中で決めるのだった。



「あら、久し振りですわね、おばさま」

「お子様に用はありんせん。シスレー、久し振りでございんす」



客は外套のフードを下ろすと、更紗の言葉を無視してシスレーを見つめる。

淡い紫色をしたやわらかな髪、雪のように白い肌。

派手な簪と着物、気の強さが滲み出る顔立ち。

ほのかに香が香る。



「珍しいね蝶里、神社参りで出てきたのかい?それともまた脱走?」

「神社参り以外で大門を抜けるなど、遊女にはできんせんよ。脱走せぬよう見張りもついてきていんすしねぇ」



そう言って蝶里は外に目を向けた。

痛みが引き復活していたリフィも窓の外を見る。

おっかなそうな男が2人、店の前をうろうろと歩き回っていた。

ふと、口元に手をやりシスレーが笑った。



「禿の代わりに亡八2人も抱えて、随分と偉くなったね」

「最近は逃げてなどおりんせん。ぬしが追いかけてきてくれるなら、また逃げてもいいでありんすけど」

「仕置きをするのはもう嫌だよ」



親しげに話すシスレーと蝶里にリフィは何が何だかよくわからなかった。

過去にこの遊女と親しくしていたかのように聞こえる。

シスレーが過去に何をしていたのかを知らないリフィが、様々な良からぬ想像をしてしまうにはこと足りる、

あまりに意味深なやりとりだった。

巡る想像を振り切りながら、どこか聞き覚えのある蝶里という言葉に記憶を辿る。



「ちょっとシスレー!おばさまとばかり話してないで更紗とも話して!」



対峙して話すシスレーと蝶里の間に痺れを切らせた更紗が割り込み、シスレーの腕に絡みつくと同時にリフィが声を上げた。



「あ、青磁庵の蝶里」



シスレーに向けられていた美しい目は、リフィの言葉を聞くやいなや鋭い光を帯びてゆっくりとリフィに向けられる。

外套を大袈裟にバサリと自身に引き寄せながらリフィに向き直ると、首を傾げ怪訝そうな表情でひと睨み。



「どちらさんでありんすか?」

「リフィと言います。ここで給仕の仕事をしていて…あの、蝶里さんって青磁庵の」

「よく知っておられるようで」

「あたしがいた店でもよく話に出てきましたから」

「ぬしも歓楽街の人間でありんすか?女の色気がなくて気づきんせんでありんした」



同じ歓楽街の人間ということで少し親近感があったのだが、それはリフィだけだったようで、冷たく返されてしまった。

色気の件はそこまで気にならなかったものの、美しい人に睨まれると一際悲しくなるものだ。

リフィは本日2度目のダメージに落ち込みを隠し切れなかった。



「シスレー、今年も闘狗戦があると聞きんして、今日はわっちの狗になってもらいに来んした」



闘狗戦という言葉に反応してリフィは顔を上げた。

何か言いたげに見上げながら固く腕に絡みつく更紗をやんわりと退けると、シスレーはリフィの隣に立ち、その肩に手を乗せた。



「僕は彼女の狗になることにしたんだ。悪いけど、他を当たって」



嫉妬と怒りを孕んだ4つの目に睨まれ慌てるリフィを尻目にシスレーは綺麗な笑顔で言い放った。



「(誰か助けてくれー)」







2人を何とかして落ち着かせ、席に座らせるとシスレーが淹れた紅茶を出した。

誰も口を開くことなく無言の時間が続いたが、だんだん怒りが静まってきたのか

更紗が溜息を吐いて脱力したように背もたれに寄りかかる。

シスレーがカウンターの中で茶菓子の準備をしている間、リフィは勇気を出して2人に話しかけてみることにした。



「あの、蝶里さん、更紗ちゃん、闘狗戦ってなに?」

「はぁ!?知らないで参加するつもりだったの?」

「シスレー、やっぱりわっちと出たほうがいいでありんす」

「はいはい、あまり闘狗戦のことで騒がないほうがいいよ」



リフィと自分の分の紅茶とクッキーを乗せた盆を片手にシスレーが席につく。

女性特有の甲高い声が飛び交い、店の中は営業中のように騒がしい。

シスレーに注意されると、蝶里も更紗も口を噤んだ。

なぜ騒がないほうがいいのかわからず、リフィはシスレーを見つめる。



「なんで闘狗戦のことで騒いだらいけないの?」

「命を張った賭け事だからよ、あとは、儀式めいてて怪しまれてるからかしら」



シスレーの代わりに答えたのは更紗だった。

出された紅茶を一口含むと、当たり前のことを聞くなという顔でリフィを一瞥する。

戦とつくのだからある程度構えていたのだが、予想外の答えに耳を疑うのも仕方なかった。

理解できずに唖然とするリフィを尻目に、蝶里がゆったりと口を開いた。



「狗が強ければ、わっちら貴妃に命の危険はないのでありんしょう?」

「まぁね」



光を受けて樺色に揺らめく紅茶を眺めながらも、どこか遠くを見るような目でシスレーが頷いた。

命に関わることながら、特に大事でないように話す3人に不安になり、指先を合わせながらリフィが弱々しく呟いた。



「強ければ命の危険はないって…シスレーが弱かったら死ぬっていうことじゃ」



死ぬ、という言葉を口から零したとき、長い髪が肩から落ちた。

俯くリフィの姿からは、死に対する動揺と恐怖が手にとるようにわかる。

紅茶をテーブルに置くと、更紗が苛立ちを増した声を発した。



「馬鹿言わないで、シスレーは強いに決まってるでしょ!」

「青磁庵と伊手屋の用心棒を兼任していたほどの実力の持ち主でありんすよ」



更紗に続き、蝶里も端正な顔に不愉快さを滲ませ語気を強めた。

本島の要人が利用するほど人気の店である青磁庵の用心棒になるということ、

そして、軍警代わりの車夫衆がいる伊手屋で用心棒として雇われるということ、

共に島一番の腕利きであることを意味していた。



「昔の話だけどね」



光の届かない部屋の隅に目をやりながら、シスレーは静かに呟いた。

思い出されるのは4年前、遥と一緒に生きていた時間。

































「裏通りで車夫狙いの暴漢が出た!」



シスレーが店先で足をぶらつかせて俯いていたとき、町人が慌てて駆け込んできた。

慌しい来客に、小走りで現れた番頭は話を聞くと静かにシスレーに視線を投げた。

番頭の視線にすこし顔を傾けてから地面へ足をつける。

壁にかけてあった伊手屋の半被を羽織ると、店の外に出る。

店にやってきた町人が先導する後ろを無表情で歩いていくと、騒がしい人ごみの中に小刀を振り回す男を見つけた。

逃げることはなくとも、何箇所か切りつけられた車夫は、暴漢と対峙するだけがやっとのようだった。

更紗から言われているからか、血だらけの腕の中には、客からもらった大事な賃金がある。



「(やれやれ、更紗もよく鍛えたものだ)」



頭の片隅でそう思いながら、どうやって暴漢を倒すかを考えていた。

道は野次馬が塞いでいて通れそうにもない、ならば、と斜陽に目を細めながら家々の屋根を見上げた。

堂々と人ごみを割って入ってもよかった。

伊手屋の用心棒シスレーの名は広まっていたし、道を開けてくれるだろう。

しかし、とシスレーは心の中で呟いた。



「(相手が驚く顔、そこから恐怖の顔に変わっていく様がこの世で1番おもしろい)」



屋根の上に舞い上がると、その高さから暴漢の肩を目がけて飛び降りた。

空中で体を捻り、逆立ちをした状態で暴漢の両肩を掴む。

笑みを浮かべたシスレーと一瞬目が合った暴漢は、シスレーが望む通りに驚き、そして怯えた表情を見せた。

あとは回転する力に任せて投げるだけだ。

地面に背中から叩きつけられた暴漢は、完全に気を失ってしまった。

あっという間のできごとに、野次馬も車夫もぽかんとしたまま固まっている。



「手当ては伊手屋でしてもらって」



血を流す車夫に対しては心配する様子も見せず、そう一言残すとその場を後にした。

後ろから歓声が聞こえても、シスレーは振り返りもしなかった。



「あれ、伊手屋と青磁庵の用心棒やってるレピーユ人だろ?」

「喧嘩は強いが無愛想なところがいけすかねぇなぁ」

「やだねぇ、嫉妬かい?」

「これだから瑞祥の男は駄目なのよねぇ」



温かい色の髪に、宝石のような目、顔立ちも綺麗なシスレーは女には人気があった。

それに伴い、男からはあまりいい印象がない。

仕事終わりに飲みに行こうと誘っても断り続けるシスレーに、伊手屋の車夫衆もあまりよく思っていなかった。

飲み屋に行くこともあまり好きではないが、断るにはわけがあった。



「手形を見せておくんな」

「顔見知りのくせに」



伊手屋の半被を脱ぎ捨てたシスレーの姿は、朱や桃色の提燈が揺れる歓楽街にあった。

懐にあった手形を見せると、辺りを見回してからすばやく番屋に入る。

手形を確認した亡八は、狭い部屋の奥から着物を出してシスレーの横に置く。



「いくら姿を隠したいからって、その格好はねぇだろ、不気味だし悪目立ちするぜぇ」



着替えを済ませたシスレーの姿をじっと見ていた亡八は、顔を歪めて手をひらひらさせる。

黒い布で頭を覆い、黒い天狗の面をつけている。

歓楽街で働いていることを遥に知られないように、仲見世通りで有名になってしまった容姿を隠して働きたかったのだ。



「どうせ大事のときくらいしか呼ばれないんだから、問題ない」



とはいえ、青磁庵の黒天狗は有名人だった。

その容姿もさることながら、喧嘩の腕は天下一品だと言われていた。

仲見世通りのシスレーを知る客からは、どちらが強いのかとからかわれたりもした。

正体を知っている亡八たちは、そうからかわれるシスレーを見ては大笑いしていた。

一言何か言ってやりたいときもあったが、声でばれてしまってはいけないと必死で堪える毎日だった。

性質の悪い客を成敗するのも大変だが、黒天狗が座敷に乗り込むだけで大抵の客は黙った。

大変だったのは、逃げる女郎を諭し、連れ戻すことだ。

逃げようとする女郎は多いが、蝶里は抜群に脱走する回数が多かった。



「よく働くなぁ、おめぇさん」



シスレーもそれは自覚していた。

昼は伊手屋で、夜は青磁庵で働きづめ。

どんなに疲れていても、報酬を手に入れるためなら厭わなかった。

それはひとえに、愛する遥を養っていくためだ。

辛いわけがなかった。



「おかえりなさい、シスレー」



本島も、浮世島も信じられない。

愛する人を守れるのは自分だけ。

目の前で微笑む恋人に辛い思いをさせないためには、自分が身を粉にして働くしかない。

命の危険があろうと、血を流そうと、1度は捨てた命を誰が惜しがろうか。

遥こそが生きる意味であり、生きる喜びだった。





ただいま、はるか

































「シスレーが強いことはわかったけど、不安は不安だなぁ」

「あんたね…どんだけ情けないのよ!」



シスレーが過去に思いを馳せている間に、更紗と蝶里がリフィにシスレーがいかに強いかを説明していたようだ。

苦笑いをしながら頭を掻くリフィの給仕服を見て、目を逸らした。

こんこん、と扉を叩く音が聞こえ、顔をあげるとそこには困った顔をした長身の男がいた。

カーテンの隙間から必死に中を窺っている。

その後ろから亡八たちも眉間に皺を寄せて手招きをしていた。



「仕方ない、そろそろ店に戻らなきゃだわ」

「シスレーを口説くのは無理そうでありんすし、早く他の狗を探さないと」



ぽんとソファーから降りた更紗に続いて、蝶里も腰を上げた。

見送ろうとその後ろからついていくリフィに、振り返った2人が詰め寄った。



「ひぃ!なんですか!」

「生半可な気持ちなら闘狗戦に出ないほうがいいでありんすよ」

「死ぬ覚悟で挑めないやつに、自由なんかありえないんだから」



身を庇っていた両腕を恐る恐る下ろし、去っていく2人を見送った。

店を開けようか、というシスレーの言葉に生返事をしながら、リフィは考えた。



「(自由になるってどういうことなんだろう)」



テーブルを拭くシスレーを見つめながらその胸の前で拳を握った。



「(あたしは、どうしたいんだろう)」







自由の答え