「リフィ、珈琲とミルクティーよろしく」

「はいはーい!」



喫茶loinはなかなか流行っていた。

浮世島に住んでいる人だけでなく、本土に住んでいる人も橋を渡ってやってくる。

美味しい珈琲と紅茶、瑞祥に出回っていないような珍しい甘味を口に出来るということも繁盛の理由だったが

1番の客寄せになっているのはシスレーの類稀なる聞き上手な性格だ。

カウンターの中で忙しなく働きながらも客の話は決して聞き漏らすことがない。

その上、1度顔を合わせた客は名前や容姿だけでなく話の内容や好みまで覚えているのだ。

珈琲とミルクティーの用意を終え、客の話に耳を傾けているシスレーを視界の端に

リフィはカップを盆に乗せると至福の時を待つ客の元へ運んでいく。



仕事を始めて3日目。

寝る間を惜しんでメニューを覚えたおかげで初日ほどは失敗しなくなった。

最初こそ抵抗のあった給仕服も、今となっては相棒のような気がしている。



「どうだい?慣れてきたかな」



源と長谷と待ち合わせをしているという矢木が穏やかな笑みで話しかけてきた。

常連客である3人の老人は、リフィが入店してから毎日欠かさずやってくる。

これは特別なことではなく、リフィが来る前から毎日やってきているようだった。

シスレーはこの3人から注文を聞くことなく“いつもの”を準備している。

常連中の常連なのだ。



「まぁ、だいぶ。予想以上に忙しくて驚いてますけど…」

「ここは流行っているからねぇ、最初はみんな遥ちゃんが目当てだったんだけれど」

「遥ちゃん?」



他の客からも度々聞く遥ちゃんという存在がずっと気になっていた。

シスレーに何度か聞いてみようと思ったこともあったのだが、なんとなく話を聞けずにいたのだった。

それは3日前に誘われた“闘狗戦”に対する返事をしていないということも引っかかっていたからなのだが。



「遥ちゃんはねぇ、シスレーと一緒に店を切り盛りしていた女の子だよ」



矢木はそう言うとリフィの着ている給仕服を指差した。



「それはもともと遥ちゃんが着ていたものだ」



リフィの足元を見ると肩を竦めて苦笑いを浮かべ、少し短いね、と言った。

矢木の指摘通り、この着物はリフィには丈が短かった。

お下がりだと思えば納得出来るというもの。



「そうだったんですか」



着物の裾をぼんやり眺めながら呟くように返事をする。

シスレーの口からその話を聞いたことがないのは、意図して話さないからなのだろうと思っていた。

意図して話さないのは何か複雑な事情があるからなのだろうとも思っていた。

ふとシスレーに視線をやれば、客と楽しそうに話している姿が目に映った。



「遥ちゃんがいなくなってから元気がなくてね、別れてしまったのかと思ったけれど、聞くのも野暮でしょう?」



頬杖をついて同じくシスレーを眺めていた矢木がぽつりと呟く。



「恋人、だったんですか?」

「えぇ。シスレーは彼女のことをとても愛していたように感じたよ、私はね」



へぇ、とリフィが頷くのとほぼ同時に源と長谷が店にやってきた。

2人を席へ案内してシスレーに視線をやれば、目を合わせることなくすでに珈琲を淹れ始めていた。

シスレーが準備を終えるまで待とうと何気なく店内を眺めていると声がかかった。

振り返ると、そこには常連のおばちゃん2人組。

2人で忙しなく手を招くように動かしてリフィを呼び寄せる。



「ねぇリフィちゃん、気をつけなさいよぉ?」

「はい?」



突然の言葉に意図がわからずに聞き返すと訝しげな表情を返された。



「知らないのかい?最近裏通りに変質者が出るらしいのよ」

「しかも若い女の子ばっかり狙うっていうからぁ」



そういえば、とリフィは思い返した。

ここ数日の間、仲見世通りの裏通りに若い女だけを狙って刃物で切りつける変質者が出ているらしい。

軍警院が守っている本土とは違い、無法地帯になっている浮世島では

取り締まる機関がないために、こういった変質者がよく現れる。

本土では浮世島を無法地帯で至極荒れている野蛮な島と言っているのだが、実のところそうでもない。

確かに軍警院のような秩序を守る機関もなければ、政治院のような政をする機関もない。

しかし、浮世島の、特に仲見世通りは共通の規則を守り、

人力車屋の車夫衆や火消し衆が夜回りをするなど自治をしている。

おかしなことを仕出かす輩は、血の気が多くガタイの良い車夫衆や火消し衆によって成敗されてきた。



「大丈夫ですよ、あたし女の子に見えませんから」

「そうですよ、心配する必要はありません」



背後から響いた声に驚いて振り返ると、そこには満面の笑みを浮かべたシスレーが立っていた。

その手には、源、長谷、矢木のために淹れた珈琲が乗せられた盆がある。



「リフィ、ちゃんと仕事して」

「すみませんでした」



擦れ違い様にぼそりと呟かれた一言に、リフィは縮み上がる思いがした。

















喫茶loinでの仕事は給仕だけではない。

評判になっている珍しい甘味は、シスレーが作っているわけではないため、他の店から仕入れてこなければならないのだ。

それを引き取りに行くのもリフィの仕事だった。

珈琲豆や紅茶葉のように日持ちするものではないので、ほぼ毎日出掛けて行かなければならない。

初日は地図を見て迷いながらやっとのことで辿り着いたものだった。



「(あの日は迷ったなぁ)」



テーブルを拭きながら思い返す。



店の名前は思案堂シアンドウ

仲見世通りから裏通りに少し入ったあたりにある、落ち着いた雰囲気を持った純喫茶店だ。

一面が硝子張りになっているのだが、店の中が少し薄暗いためか店内はぼんやりとしか見えない。

入り口の真上に掲げられた燻された古い木の板には、思案堂、その下に少し小さな文字でcyanと書かれている。

初めて訪れた時、リフィは入るのを躊躇った。

店先で立ち止まったまま動かないリフィを招き入れてくれたのは、10歳くらいの男の子だった。

















「お店、やってます?」



薄暗い店内に心配そうに声をかけるリフィを無視してドアを開け放つと、そのまま店内に戻っていってしまった。

どうしていいかわからず立ち竦むリフィに、感情のない声でぼそりと呟く。



「どうぞ」

「え?」



蚊の鳴くような声に身を乗り出して聞き返すも、彼はもうそれ以上何も言ってはくれなかった。



「loinの新しい給仕さんかい?」

「うわ!」



ぼんやりと男の子を見送っていると真横に突如人が現れ、耳元で囁かれた。

驚いて横に顔を向けると、そこには顎鬚を生やし煙管キセルを咥えた片眼鏡の男が立っており。

青光りする黒髪を揺らして悪戯そうな目でリフィを見ていた。



「今日の分のお菓子なら用意出来てるよ。鈴、持ってきて」

「いやです」

「鈴様、持ってきてくだされば小生、新しい本を買ってさしあげようと思うのですが、いかがでしょう?」



その言葉を聞いて暫く考え込んでから、無表情のまま包みを抱えて持ってくるとリフィに渡し、

片眼鏡の男を蔑むような目で静かに睨んでからそのまま店の中へ入っていった。

予想以上の重さに唇を噛んで耐えていると、男が咳払いをした。



「これから宜しく頼むよ」



偉そうに胸を張って手を差し出してくる片眼鏡の男に困惑した表情を向ける。



「あの、あなたは誰なんですか?」

「これはこれは、お嬢さん不躾だね!」



大いに結構と高笑いをし始めた片眼鏡の男に、周囲の視線が一気に集まる。

関係のない自分まで好奇の目に晒されている気がして、リフィは身を縮めた。



「(いったいなんなんだこの人…)」



顔を歪めて見つめているとやっと笑うのを止めた。

煙管を咥え直すと邪気の溢れる笑顔を見せ、手で思案堂の看板を指し、控えめに腰を折る。



「思案堂のマスターだよ」

















そこまで回想するとリフィは、はたと手を止めた。

思案堂にまつわることで何か大切なことを忘れていたような気がしていたのだ。

カウンター横の硝子ケースには、スコーンやマフィンが並べられている。

それらはすべて思案堂のマスターが作っているものだ。

何を忘れているのか考えあぐねながら焼き菓子を見つめていると。

ちょうどシスレーが客から御代をもらっているのが見えた。









―「あれ、300安足りないね」

―「げっ、すいません!」









頭を過ぎったのは今朝の出来事。



「シスレー!焼き菓子代300安足りてなかった!」



今朝、焼き菓子を引き取りに行った時に渡した御代が足りず、

午後には残りを持っていく約束をしていたことを思い出してシスレーに駆け寄る。

その言葉を聞くと、珍しく慌てたような表情を浮かべ、御代を入れていた箱から300安を取り出してリフィに渡した。



「あの人、約束事には厳しいから、全力疾走でよろしくね」



申し訳なさそうな顔をしながら随分と無理なことを言ってくる。

リフィは給仕服を一瞥してからシスレーに向き直るも、

その意図を読み取りつつもシスレーの気持ちが変わっていないのは、目の色を見れば明らかだった。



「よろしくね」



わかってますとばかりに御代を帯留めに挟むと、着物の裾をぐいと持ち上げる。

客席からの声援を背にリフィはloinを飛び出した。











「だれ、あの女」

「喫茶loinから出てきたね」



リフィが走り抜けていった仲見世通りを2人組が歩いていた。

1人は赤いワンピースと黒いローブを身にまとった可愛らしい少女。

もう1人は長身で浅黒い肌の男。

リフィの後姿を探るような目で見つめる少女に、男が控えめに言葉を添える。



「まさか、あれを器にするとか言うんじゃないでしょうね…シスレー」



男は光のない目で不安げに少女の横顔を見つめた。











ドアの札を準備中にすると1日の仕事が終わる。

朝10時に店を開けてから10時間、殆ど休憩らしい休憩もないため

2階の家に上がるとそのまま眠ってしまいたくなるほど疲れている。

夕飯の準備に取り掛かるシスレーの負担を少しでも減らそうと、洗濯はリフィがすることにした。

シスレーが料理をしている間に手早く済ませ、竹竿に干す頃には食事だと呼び声がかかる。

飲み込みの早いリフィからすれば、3日という歳月は、この生活に慣れるのに十分な期間だった。

美味しい料理で胃の腑は満たされ、食後のお茶で気持ちが和ぐ、1日目2日目と変わらない穏やかな雰囲気だ。



「リフィ、僕はもうこれ以上待てないよ」



その平穏は、シスレーの穏やかにして険のある言葉で切り裂かれた。

覚悟はしていたものの、実際に言葉に出されると身が硬くなる。



「そんなに急ぐことなの?だって、まだ3日しか経ってないし」

「急ぐことだよ、参加表明をするまであと1週間しかない」

「まだ1週間もあるじゃん」



この3日でシスレーの人間性が少しわかってきたリフィには

今のシスレーがぐっと堪えながら話していることがわかっていた。

それはまるで、襲い掛かりそうになる自分の本能を、理性という鎖で懸命に取り押さえているようだ。



「僕らはお互いをよく知らなければいけない」



食卓に乗り出しそうになる体を椅子の背もたれに押し付け、シスレーは目を伏せた。

指で割烹着を弄りながら言葉を探す。



「その時間が必要なんだ」



事態は急を要するようなのだが、リフィの答えはまだ定まっていなかった。

仕事を覚えるのに必死だったこともあったが、何よりも、闘狗戦についてまだよく知らないという恐怖があった。

このシスレーの様子では、詳しく教えてもらえる見込みはないだろう。

参加すると言葉にすれば、何か詳しいことを教えてもらえるかもしれないが、リフィにはその確証がない。

雇ってもらった義理、奴隷身分からの解放、自由な人生、それらを恐怖と天秤にかければ、前者の皿が沈む。

もやもやとした霧の中でぼんやりとした光が見えるように、霞んだ思考の先に、もう答えは半分見えていた。

足りないのは度胸や勇気という類のものだ。



「少し考えさせて」



そう言って席を立ったリフィを引き止めることなく、シスレーは黙って見送った。

夜の浮世島は海風が強い。

唸り声を上げて渦巻く風に長い髪が弄ばれる。

歓楽街と違って、仲見世通りの夜は静かなものだった。

各店が夜道を行く人のためにと掲げた提燈と、いくつかの街燈が照らしているだけだ。

歩みを進める足先を見つめながら目的もなく歩く。

午後に全力疾走した思案堂まで行ってみようかと足を向けた時、背後に人の気配を感じた。



「誰かいるの?」



急いで振り返るも、何も見当たらない。

自分の勘違いかと少し恥ずかしくなり、頭を掻いて1人で笑っていると、背中に何か硬いものが当たった。

思考が止まった一瞬の間の後、全身が暑くなって寒くなり、冷や汗が背中を伝うのがわかった。

荒い息遣いと、少しずつ食い込んでくる硬く鋭いものの感触にリフィは小刻みに震えだした。

最悪の事態が頭を過ぎる。



「(殺される)」



背中の痛みはだんだんと増し、滑りと温かさを孕んできた。

跳ね飛ばせばいいものの、あまりの恐怖でリフィの体は動かない。

背後から小さく笑い声が聞こえてくる。



「(――まだ死にたくない――!)」



固く目を閉じて強く念じた時、リフィの横を風が通り抜けた。

背中に食い込んでいたものの感触がなくなったことと、背後で鈍い音がしたことだけわかり、

その場を離れなければと咄嗟に前へ飛び退けた。

地面に座り込み、仄明るい辺りを見渡すと、ナイフを持った男とシスレーが対峙していた。

シスレーに殴られたのか蹴られたのか、男は顎の辺りを押さえてふらふらしている。

ナイフを向けながら尚も好戦的な態度の男を、シスレーはただ静止して見つめていた。



「あ、あたし車夫さん呼んでくる!」

「いや、呼ばなくていいよ。厄介だから」



ナイフを突き出し襲ってくる男の攻撃を避けながら、取り乱すリフィを宥める。

余裕綽々なシスレーの態度に煽られたのか、男は壁に追いやるようにシスレーに迫る。

リフィはその場から動けず、ただ見ているしか出来なかった。



「刺そうとするから当たらないんだよ、的が小さくなるからね」



口元を緩めると楽しげに呟く。

くるりと男に背を向けると、音もなく跳ね、壁を使って宙返りした。

長い三つ編みが月明かりを受けて輝いて見える。



「(綺麗…)」



リフィが見とれている間に男の真後ろに降り立つと、首に一撃を加えた。

小さく呻き声をあげ、ゆっくりと男が倒れていく。



「背中、大丈夫?」



男をその場に残して、何事もなかったかのようにリフィの傍に膝をつくと、心配そうな表情を浮かべながら怪我の様子を診る。



「大丈夫だけど、どうしてここに…」



割烹着の裾を破って傷口に宛がいながら、シスレーは呆れたように溜め息をついた。



「お客様が言ってたでしょ?変質者が出るって」



変質者の話は、リフィが客としていた話だ。

シスレーはそれすらも逃すことなく聞いていた。

それがリフィの命を救ったのだ。



「君は僕にとって大事な体なんだから、気を付けてよね」



言いながら手早く応急処置をしていく。

尊敬の眼差しを向けていたリフィは、シスレーが発した言葉に暫く固まってしまった。

男の子にこんな甘い言葉を言われたのは初めてだったからだ。

ほんのりと火照った頬を照れ隠しに掻く。

後々、このシスレーの言葉は、何の甘い雰囲気を持ったものでもないことを知るのだが、そんなことは今のリフィには知る由もない。



「それにしても、シスレーって喧嘩強かったんだね」



怪我に障るというシスレーに大人しく背負われながらそう言って笑った。

シスレーは、身長もそれなりに高く、比例するように軽くもない体重のリフィを軽々背負っている。

背中の痛みと恐怖の余韻で恥ずかしさはないが、何ともいえない興奮でリフィはずっと笑っている。

変質者はというと、道端に落ちていた荒縄で米問屋の柱に縛りつけておいた。



「弱そうに見える?」



体を揺すって背負い直しながらシスレーはからかうように訊ねた。



「肉体的にはね」

「それって、どういう意味かな?」



わざとらしい口調になったシスレーが、少し機嫌を損ねたことを察知したリフィは慌てて頭を下げる。



「ごめんなさい」



ぺこぺこと頭を下げるリフィの動きを背中に感じれば、シスレーはいつか見た赤ベコ人形を思い出すのだった。

シスレーは、リフィが家を出てから少しの間、急いてしまったかと反省していた。

焦る気持ちでいっぱいになっていた時、昼間の噂を思い出した。

ただでさえ安全とは言えない島。

探しに出て正解だったと思い、揺らし過ぎないよう気を付けながら再び背負い直す。



「リフィは命の恩人に随分と酷いことを言うんだね」

「すいませんでした」



シスレーに何を言われても背なのリフィは感謝していた。

命あっての物種。

謝りながらもその顔は安堵と喜びに満ちていた。



こうして天秤はゆっくりと傾きを増していく。

物種を皿に乗せて、恐怖を高く掲げた。







人生決める天秤