源、矢木、長谷が帰るとシスレーは店仕舞いを始めた。

仲見世通りの他の飲食店はまだ営業している時間なのに、だ。



「ドアの札、準備中にしておいてくれる?」



働くとは言ったものの何をしたらいいのかわからず店の隅でぽつんと立つリフィに

硝子戸を指さしてシスレーが指示をする。

言われるがまま硝子戸の傍へ行って札を裏返す。

初仕事を終えて振り返って店内を眺めれば、そこまで広い店ではなく、椅子は20脚ほどしか用意されていない。

壁はところどころタイル貼りで、喫茶店というよりも理髪店のように思えた。



「古い理髪店を改装したから、間取りとか内装とか喫茶店じゃないみたいでしょ」

「え…」



考えていたことが見透かされたようで身じろぐリフィを余所に、シスレーは慣れた手つきで食器を棚にしまっていく。



「こんな店しか持てないけど、自分で稼いだ分を自分の為に使う、1度やってみたかったんだ」



珈琲豆の袋に封をしながら切なげに微笑む姿にリフィは胸が締め付けられるような気持ちがした。



自分で稼いだ分を自分の為に使う。



それは、浮世島に住む外国人奴隷なら誰もが持つ小さな夢だ。

この島に住む殆どの外国人奴隷と瑞祥人の身元不明者は誰かに雇われて低賃金で働いている。

リフィも歓楽街の飲み屋で同じような条件の下働いていた。

ふと、リフィの頭に疑問が過ぎる。

殆どの外国人奴隷は誰かに雇われていて、自分で店を持つことは稀有なことだった。



「(いったいどうやって自分の店を持ったんだろう)」

「よし、片付けと準備終了。リフィ、荷物を持って」

「あ、はいはい」



リフィの考えをシスレーの柔らかな声が掻き消す。

割烹着を脱ぐとテーブルに置き、カウンター横のドアに手をかける。

リフィは荷物を肩にかけるとシスレーの後に続き、飲み屋と似たような外付けの階段を上がると

鍵付きの古い木製のドアが目の前に現れた。



「1階が店で、僕は2階に住んでるんだ」



錆びた金属の擦れあう音がして鍵が開き、少し軋みながら開くドア。

室内はまさしく和洋折衷といった感じで、和室と洋室があり、男の独り暮らしにしてはさっぱりしている。

和室の襖を開けると、シスレーはリフィに入るように促した。

卓と箪笥が置かれているだけの慎ましい作りながらリフィは一目見て気に入った。

飲み屋の部屋と比べればどんな部屋も豪華な屋敷のように思えたのだ。

煙草の代わりに香る藺草の香りが心地良い。



「わあ!いい部屋!」



思わず感嘆の声を漏らすリフィを横目で眺めながらシスレーは穏やかな笑みを浮かべた。



「この部屋好きに使っていいよ、箪笥は空いてる引き出しを使って」

「いいの?」

「ただ、入ってる着物はそのままにしておいてね、汚さないで」

「それは勿論…」



畳の上に荷物を置きながらシスレーの方へ顔を向けるとリフィは言葉を飲み込んだ。

背中に冷たい水が垂らされ、つうと伝っていくような感覚。

目に入った表情は病的な冷たさを孕んでいた。



「荷物、整理したら軽めの食事を作るから一緒に食べよう、ね?」

「う、うん…」



先程のぞっとする顔からは想像もつかないほどの温かい笑みでリフィを捉えると、そのまま背中を向けて台所へと向かってしまった。

手持ちの数少ない服を箪笥に入れ終えると卓の上に化粧品を置く。

部屋を自分色に染めつつ、ふと箪笥に視線をやれば思い出すのはシスレーの表情。



「もしかして、おっかない人のとこに来ちゃった感じ…?」



自分の選択が間違っていたのではないかと深く溜息を吐いた。













「どうして働くところを探してたの?」



シスレーが出してくれた茶漬けを啜っていると、同じく茶漬けを啜っていたシスレーが訊ねてきた。

喉の奥に流し込むと手の甲で口元を拭って卓に肘をつく。



「解雇されたの、昨日の夜に」

「それはまた…大変だったね」



リフィが低く唸るように溜息を吐けばそれに同情を寄せるように呟く。

再び食事を再開するリフィをちらりと盗み見て、シスレーはふっと笑った。



「なに?」

「いや、本当に男の子の雰囲気がするな、って」



リフィの視線から逃げるように目を伏せて茶漬けを掬い口をつける。



「その、男の子の雰囲気ってなんなの?」



不思議そうに目を瞬かせるも空腹には勝てず食事を続ける。

顔にかかる髪を耳にかけながら然して気にも留めないといった風で顔をあげると。

シスレーは向かい合ったリフィの顔をじっと見た。



「がさつそうだからかなぁ」

「な…!」



あはは、と情けなく笑いながら頭を掻く。

身を乗り出すようにして何か言いたげなリフィの口元に米粒がついているのを見ると

シスレーは抑えていた声を大にして笑った。



「(思ったより良い人かも!)」



目尻を下げて笑うシスレーはどう見ても良い人にしか見えない。

何故笑われているのかわからないままリフィは茶漬けの味を噛み締めた。



「それで、仕事の話なんだけどね」



シスレーは食べ終えた食器を水場に持っていくとすぐに日本茶を淹れ始めた。

2杯目を食べていたリフィは口いっぱいに頬張ったままシスレーに視線を投げる。

湯呑みを2つ手にして卓に戻り、それを置くとすぐにどこかへ行ってしまった。

暫くして戻ってきたシスレーの手には桃色を基調とした着物とレース付きの白いエプロンがあった。

リフィが着たことのないタイプの服だ。



「明日からこれを着て給仕してほしいな」

「は…?」

「注文をとること、お客様の対応、それから掃除もしてもらうからね」

「これを着て…?」

「これを着て」



半ば押し付けるような格好で卓の上に着物とエプロンを置くと有無を言わせない笑顔で頷く。

茶漬けを完食したリフィは暫く唖然としていたものの、自身のおくびで呼び戻されたのか渋い顔をした。



「もう少し動きやすそうな服は」

「働きたいんでしょ?違う?」



首を傾けてニコリと微笑まれれば、もうリフィは断ることが出来なかった。

勿論そういう性格なのは自分でもよくわかっているので諦めるより他はないし

それに増してシスレーが柔らかい雰囲気の中に強引さを隠し持っているものだから閉口するしかないのだ。



「(やっぱりおっかない人だ…)」



食べ終えたリフィの食器を回収して水場で鼻歌混じりに洗い物をしている後姿をじっとりと見つめた。















湯呑みの茶を飲みながら満腹である幸福を味わっているところに幾分か真剣な顔をしたシスレーが戻ってきた。

じわじわと足元から何か絡み付いてくるような視線に、リフィはなんとなく気まずくなって湯呑みを卓に置くと伺うように目を見る。



「リフィは奴隷っていう身分を恨んだことはない?」



シスレーは出来るだけ感情を押し殺して微笑んだつもりだった。

感情を表に出し過ぎるとあまりに凶悪になってしまう本当の自分を知っていたから。



「…奴隷じゃなかったらって、思うけど」



突然の質問に戸惑いながら、リフィは笑顔の裏に蠢く黒い魔物のようなものを感じ取っていた。

その魔物に手招きをされている気がして目を逸らす。



「それは、自由になりたいってことだよね」



あえて視線を追うことはせずに核心に触れる。

少しだけ急いている自分に気づけばシスレーは冷静になろうと努めた。



「(これを逃したら遥は…)」



脳裏に愛しい人の笑顔を思い浮かべれば何だって出来る気がするのだ。

奴隷の女1人を騙して利用したところでどれだけの罪の意識が芽生えるだろうか。

心の隅で小さく笑うと、目の前で戸惑っているリフィを見据えた。



「ここだけの話、自由になれる方法があるんだ」



僕みたいに、と付け加えると、信じられないとリフィの目が語る。

この国で奴隷が自由を手に入れるなど不可能に近い。

戦争で他国がこの国を打ち倒したというのなら可能性はあるが、

この世界一の奴隷保有国で奴隷が自由になるなど有り得ないことだ。



「ある試合で勝ち残れば、望んだことは何でも叶えてもらえる」

「試合…?」

闘狗戦トウグセンっていう試合があるんだよ、それで優勝して僕は自由になった」

「とうぐせん」



リフィが言葉を繰り返しているのを見てシスレーは目を細めた。



「(さぁ、美味しい餌だよ、喰らいつけ)」













恋人である楠瀬遥クスノセハルカが失踪してから2ヶ月。

必死に掻き集めた情報から考えれば、遥を取り戻すためには闘狗戦に再度参加する必要があった。

闘狗戦はまもなく始まってしまう。

参加条件を満たすために、シスレーは器を持った女を求めていた。

それが見事に転がり込んできたのだ。

この好機を逃すわけにはいかなかった。







―「シスレー、生きるって気持ちがいいでしょう?」







「(君が僕の生きる理由だから、君がいなくなってしまったら)」







リフィが身じろいで覗いてきたことに気づけば怪しまれないように笑ってみせる。

シスレーの笑みに考えあぐねているようで、

流されそうになる自分を必死に律しながら言葉を紡いでいるのが手に取るようにわかる。

試合の内容を聞きたいのだろう、リフィは控えめに説明を求めていた。

闘狗戦の内容など質素で簡潔だ。

器を持つ女の応援を受けながら狗のようになった男が必死に闘う、それだけのことである。

説明を受けてもいまだ疑問は晴れないようで何か言いたげにしているリフィに

シスレーはゆっくりと誘うように囁いた。



「ねぇ、自由を手に入れたくない?」





好機の捕縛