「すまないね、リフィ」



気の弱そうな中年の男が禿げ上がった頭を撫でながら腰を折る。

リフィと呼ばれた少女は、強い風の中を駆けてきたために乱れた髪を梳くのを止めてぽかんと男を見つめる。

何も答えないリフィに、男は慌てて言葉を紡いだ。



「いやね、うちの店も不景気で…コレがね、無駄は省けっていうもんだから」



そう言いながら頭に角を表すように両手の人差し指を添える。

段々と冷静さを取り戻したリフィは何も言わずに苦笑いを浮かべて頷いた。



リフィが文句を言えるわけがなかった。

この情けない男は、身寄りのない自分を幼少から育ててくれた義理の親とも言える存在だ。

その上、この小さな飲み屋で歌手として働かせてくれていた。

文句などいえない。

無駄と形容されようとも。





寂れた建物の壁に付けられた螺旋階段を駆け上がる。

飲み屋の3階は楽屋兼住まいになっている。

荷物置き場と化したそこは、狭かろうが、鼠が駆け巡ろうが、リフィにとっての城だった。

申し訳程度に付けられた小さな窓から、島の夜景を眺めるのが大好きだった。

いつも飾り立てている飲み屋の女将が持っている宝石箱よりも、ずっと綺麗に違いないと思っている。



自分のもの、と言える荷物など殆どない。

店の客に貰った牛革の鞄に、必要最低限のものを詰める。

今晩の舞台ショウが終われば、ここから出て行かなければならないからだ。



スプリングが壊れたベッドの上で荷物をまとめながら時折窓の外を眺めた。

遊女が男の手を引いているのが目に入る。

そのまま庵に入れる者もいれば、中には断られ蹴られそうになっている者もいる。

歓楽街と聞けば、嫌なイメージを持つ人が殆どだろうが、リフィにとってはそこが故郷だった。

自分を生かしたのは歓楽街という特殊な環境と、自分の性別だとリフィは思っている。

何気なく、リフィは自分の乳房を掴んだ。



「まったく、やってらんないよ」



その弾力を確かめると、顔を歪めてベッドへ寝転がる。

シーツの上で外光を浴びながら小さく丸まり、顔を両手で覆う。



「(女の匂いがする)」



くるり、と体をうつ伏せにすると自棄になったように髪を掻き毟った。

そんなリフィを見下ろすように、ベッドサイドの壁にナイトドレスがかけてある。

女の匂いがするように繕われた、厭らしく穢れたドレスだとリフィはいつも思っていた。

それが舞台衣装であっても、リフィは身に着けるのが嫌で堪らなかった。

ぼんやりとベッドに身を投げ出していたリフィは、布団に押し当てた耳に1階のざわめきを聞いた。

この騒がしさは、そろそろ舞台ショウが始まることを意味していた。

ベッドに横たわったまま服を脱ぐ。

ゆっくりと、妖艶に。

まるで、誰が見ているわけでもない中で自慰をするように。

すべてを脱ぎ、一糸纏わぬ姿で立ち上がるとドレスに袖を通す。

その顔は先ほどまでの気の抜けた顔ではない女の顔だった。





1階に下りて舞台裾から客席を盗み見る。

舞踊やストリップを見るために客が押し寄せ、席はほぼ埋まっている。

大した娘がいないのにここまで客が集まるのは、他の店よりも御代が随分と安いからだ。

酒を片手にした男たちは誰もが飢えた顔をしている。

リフィが嫌そうな顔をしていると、後ろから思い切り頭を叩かれた。



「なんて顔してんだい、お客様は神様、足の裏までお舐めって教えただろ」

「あの糞虫どもの足の裏なんて、想像しただけで病気になるね」

「まったくアンタは」



もう1度叩かれそうになったのを、リフィは笑いながら避けた。



「女将さん、最後の日まで叩かないでよ」

「叩くさ、アンタは叩かないとわからない子だからね」



女将は避けたリフィの背後に回ると、すべての指に宝石を散りばめた指輪をはめた手でリフィの髪を結い上げる。

乱暴でがさつな結い方にも、リフィは目を閉じて身を委ねていた。

幼い頃から舞台ショウの時は必ず髪を結ってくれていた女将に、愛情を感じないわけがなかった。

この人が自分を無駄だと言うはずがない。

わかっていた。





「すまないね、リフィ」

「いいよ、お母さん」





慣れた舞台の上で、光の弱いスポットライトを浴びながら時折弄られる体。

それでも歌い続けたのは、恩返しのため、そして歌が好きだったから、それ以外なかった。









世が明けきらないうちに荷物を担いで店を出た。

この時間の歓楽街は、鳥のさえずりと海風だけが聞こえる静かな場所になる。

時折遠くから、海風を裂いて人力車屋の威勢の良い掛け声が響く。

リフィはうんと伸びをすると、歓楽街の関門を出た。

振り返らずに歩を進めるその手には紙切れが握られていた。

店を出る前に女将から渡されたものだ。

女将の性格が出ている乱雑なものだが、仲見世通りへ行くまでの地図が書かれている。

歓楽街から外へ出たことがないリフィのために、忙しい時間を割いて書いてくれたことに嬉しくなって地図を抱き締める。

暫く歩くと大きな神社の見える広い通りに出た。

薄ら明るい通りには、勿論人がいるわけがない。

歓楽街よりも大きな通りにリフィは戸惑いながら辺りを見回していた。









「叔母上、どこに行くの?」







突然かけられた言葉に驚き、声のするほうにへ目をやる。

いつの間にかリフィのすぐ隣には禿カムロ頭をした小さな子が立っていた。

鈴を転がすような声とはまさにこのことかと思いながらも、言われた言葉を思い出すとリフィはしゃがんでその子と目線を合わせた。







「叔母上って…お姉さんでしょ?」

「おねえさん?姉上?」

「そう!あたしはまだ19歳だから、お姉さん!」



渋い顔をして言い聞かせると禿カムロ頭の子は穢れのない目を丸くして不思議そうに首を傾げた。





「あなたは姉上じゃないもん、叔母上だもん」

「ああもう、違うってば。まだ若いからお姉さんなの!」





叔母上と言って聞かない子に、リフィは再び渋い顔を向けようとしたその時、強い風が吹き上げ、その子はもうそこにいなかった。





「嬢ちゃん!ここは伊手屋の街道だぜ、退きな!」





客を迎えに行くのだろう、通りを塞いでいるリフィに車夫が笑いながら声をかける。

ぼんやりとしながら道を開けるリフィを怪しむ店主たちが痛いほどの視線を送っている。

禿カムロ頭の子と出会う前より時が進んでいるようで、辺りは明るく、人通りが増してきていた。

状況が飲み込めないまま周りから注がれる視線に苦笑いを浮かべながら軽く会釈をし、神社を背に通りを歩き出す。





「仲見世通りなら働くところがあるだろうよ」





女将の言葉を思い出す。



「ぼうっとしてる場合じゃないや、働くところ探さなきゃ」



頬をぱんっと叩くと少し高くなった太陽を見上げた。





境界を
踏み越える